sacréconomie
ディールス/クランツ『ソクラテス以前哲学者断片』

Die Fragmente der Vorsokratiker(1906) のpdf。

アレクサンドリアのフィロンの著作の英訳

合評会:荒谷大輔『「経済」の哲学——ナルシスの危機を越えて』を読む

第95回哲学/倫理学セミナー例会

合評会:荒谷大輔『「経済」の哲学——ナルシスの危機を越えて』を読む

日時:12月21日(土)13:30-16:40

場所:文京区民センター 3-B会議室

提題者:小長野航太、星野太、佐々木雄大

URL: http://peseminar.web.fc2.com/95.html

【著者によるその他の著作】

ショメル『家政百科事典』関連まとめ

ショメル『家政百科事典』

Noël Chomel, Dictionnaire oeconomique

1732年版

1740年版

1767年版

『エコノミーの百科全書』(1771年)

Encyclopédie oeconomique ou système général

『厚生新編』(1800年代)

江戸時代の『家政百科事典』の邦訳

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545246?tocOpened=1

熊野純彦『マルクス 資本論の思考』関連まとめ

【イベント】

【著者によるマルクス論】

【その他の参考文献】

ペーターゾン「政治的問題としての一神教」(9)

ローマの支配が力を引き受けて以後、秩序(τάξις)が万物の内に宿り、輝く光が生命へと到来し、普遍的な安全がもたらされた(註50)、という。このようにゼウスの支配を政治的支配と比較する思想は、他のところでも広まっていた。例えば、カリマコスの『ゼウス賛歌』やルカヌスの『内乱』(Bell. civile I 33 ff.(註51)を思い浮かべればよい。ゼウスと政治的世界との関係は、どんな時代でもギリシャ思想の主題だっただけに、こうした思想はただちに抱かれたのである。フィロンは、「神の単一支配」という概念と同様にその語を、エジプトにおけるヘレニズム的ユダヤ教の学派的伝統の中にすでに見出していた(註53)、と推測すべきだろう。パレスチナ的ユダヤ教の代表者であるヨセフスは、どこでも神の単一支配について語っていないことは、注目に値する。これに対して、エジプトに由来する(註54)『マカバイ記3』――アレクサンドリアに由来するユダヤ教のシビュラ〔巫女〕(Buch III und Frgm. I)も同様に――は、祈りの呼びかけとして『君主』(μόνρχε, c. 2, 2)という語を知っていた。さらに、フィロンが見出したこうした伝統は、ペリパトス学派的な理念と協働していると推測するべきである。ここから、フィロンは、アリストテレス『形而上学』第12巻の結論部と同じように、『諸言語の混乱』(De confus. ling. 170)の中で『イリアス』の章句を引用する。すなわち、多数支配は善ではなく、支配者は一人が望ましい(οὐκ ἀγαθὸν πολυκοιρανίη, εἶς κοίρανος ἔστω」である。フィロンによれば、この章句は国家と人類に対して適用するよりも、神と世界に対して適用する方が正しい。だから、「万物を統制し管理することが唯一許されている単一の支配者、領主、王」(εἷς ἄρχων καὶ ἡγεμὼν καὶ βασιλύς, πρυτανεύειν καὶ δισικεῖν μόνῳ θέμις τὰ σύμπαντα)が存在する、という。この定式化は、ホメロス的な王制の概念がここではもはや本来のものではない仕方で言語表現を与えられており、王の称号はむしろ断片化され無機的なものにされて、ギリシャ的なポリスの公職的称号、神へと転移された称号と隣接している、ということを示している。このように公職的称号を神へと転移することは、ヘレニズム文学の中に見つけることができる。たとえば、ディオン・クリュソストモス(註55)やアエリウス・アリスティデス(註56)に時々見られる。このことは確かに、宇宙とは国家(πόλις)であり、最高職としての神によって管理されているとするストア的表象から説明できよう。とはいえ、たとえこのストア的表象に従って、フィロンにおいてもストア的な汎神論、神には「管理すること」しか許されていない汎神論を見出すとしても、このことを語るフィロンの文章の続きには、以下のことが示されているのである。すなわち、神的司令官には、天使という天界の戦闘力(δυνάμεις)(註56a)を自由に行使できること、ペリパトス学派の資料が、『イリアス』からの引用を選択させたこと、そしてそれがイメージの粉飾を規定したことである。これに対して他方、ポリスの公職的称号を神へと転移することは、概念的な論述という意味より、「顕彰」(τιμή)という情動的な意味を持っているのである(註57)。

S. 32.

ペーターゾン「政治的問題としての一神教」(8)

こうした考え方は、『逃亡と発見について』〔De fuga et inv. 10f.〕の中のある箇所で特徴的に見られる。ヤコブとは、「聖霊νοῦςが到来したのは、万物が秩序にもたらされるために、そして、多数支配から生ずる存在するものの無秩序を、法律に従う支配による秩序、すなわち王の支配による秩序へともたらすためである、と語った者達」(註43)の象徴である。この意味で、ヤコブは「真の単一支配の信奉者」(11(註44なのである。フィロンの思想とは以下の通りである。すなわち、神は衆愚政治の支配の後で、法律に従う支配(ἀρχὴ νόμιμος)の秩序(τάξις)を回復する。しかし、この秩序とは、王制であり、単一支配であって、民主制などではない。これは本来、民主制的理想に対する熱烈な支持者であった(註45)フィロンにあって驚くべきことである。とはいえ、ユダヤ教の神への信仰に基づいて、彼が形而上学的な民主制と関連させて、神々の民主制を語ることはできなかった。フィロンは、上に引用した箇所で、『ティマイオス』篇(30A)の中でデミウルゴスが無秩序から秩序を創造する(註46)のだと語っていたプラトンを、自説と結びつけている。しかし、フィロンがプラトン的デミウルゴスの技能的行為を政治的活動に変えたことは、特徴的である。フィロンの表現によれば、例えばアウグストゥスがそれを実行したように、プラトン的デミウルゴスもまた、「無秩序を秩序へと」移し入れたのであるLeg. ad G. 147(註47))。プラトン的デミウルゴスの行為を、このように政治的に再解釈することは、秩序(τάξις)というギリシャ語の意味の可能性に端を発する。というのも、この語でもって、国家の「体制」(πολιτία)が表されうる(註48)からである。フィロン自身が語っているように(οἵἔφασαν)、彼がこうした宇宙の政治的秩序を回復する活動との関連付けを文学から借用したこと、そして、この関連付けが、宇宙の単一的支配の本来的で真正のイメージを、ホメロス的な王制あるいはペルシアの大王制ではなく、ヘレニズム的単一支配あるいはローマ皇帝時代の元首政へと導いていることは明らかである。それゆえ、次のことも容易に分かるであろう。すなわち、確かに異教徒の土地で神の単一支配――それは初めに宇宙における無秩序の諸権力に対する闘争の中で構築された――について語ることはできるかもしれないが、ユダヤ教の神と天地創造の概念を前提としてそれを語ることはできないだろう、ということである。異教徒の形而上学に基づいて、神話的闘争の後にようやく勝利したゼウスの支配を、新たな政治秩序の構築と比較することはできよう。実際、それは珍しいことではない。この点に関しては、アエリウス・アリスティデスによるローマに向けての講演が、特に印象深い。彼はそこで、ゼウスの支配以前は、あらゆるものが完全な騒乱と反乱の内にあったのであるが、ゼウスの支配以後は、タイタン族は大地の深奥へと潜り込んだのであり、ローマの支配についても同じことだ、と論じるのである。

S. 31.
『百科全書』のアニマル・エコノミー(10)

ピュタゴラスの弟子アルクマイオンの名は、医学の事件簿の中でも、動物の解剖を初めて行なったことで有名である(彼の後しばらく経ってようやく、エラシストラトスとヘロフィロスが人間の死体にメスを入れることになった)。アルクマイオンは、健康が熱、乾、冷、湿、甘、苦、その他同様の性質における平衡に依存し、これらのうちひとつの性質が他を凌駕して、統一と均衡が阻害されると病気が生ずる、と考えていたという。こうした考えは、古代のあらゆる理論の第一の基礎であり、「悪気質」(intempéries)の様々な階層と、現代人にとって今日でもなお受容されている有名な区分、すなわち四気質の第一の基礎であった。ヘラクレイトスは、人間の悪徳に涙を流した人柄で知られる哲学者であるが、彼は人間身体と宇宙の有名な比較を提唱した。その後、錬金術師達はこの比較を再び取り上げ、人間を「マクロコスモス」(大きな宇宙)に対する「ミクロコスモス」(小さな宇宙)という名前で指したのである。ヘラクレイトスは、二つの機械が構造上似ており、諸機能の秩序とメカニズムがまったく同じであると主張していた。彼は次のように述べている――「我々の身体に起きていることは、宇宙で起きていることと同じである。尿は膀胱で作られる。ちょうど雨が大気の第二層で作られるように、大地から立ち上って濃縮され雲となった蒸気から、雨が生じるように。同様に、尿は養分から上昇して膀胱に浸透した発散物から形成される」。この記述から、ヘラクレイトスの生理学について、彼の解剖学的知識の広さと正しさを判定することができる。

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ペーターゾン「政治的問題としての一神教」(7)

しかし、フィロンは、ユダヤ教神学で利用できるように、ペリパトス学派の資料を改変していたように見える。第一の点は、神についての言明に関わる。『個々の律法について』〔20〕にあるように、神とは「単に精神的・感覚的な神々の神であるだけはなく、万物の創造主の神である」(οὐ μόνον θεὸς θεῶν ἐστι νοητῶν τε καὶ αἰσθητῶν, ‘λλὰ καὶ πἀντων δημιοθργός)とすれば、最上の神によるデミウルゴスとしての働きへのこの言及は、ペリパトス学派的な直観を自覚的に超えていくことになる(註34)。第二の点は、大王と廷臣のイメージを使用することによって必然的に(註35)生じる、イメージの多神教的解釈に対する論争に関わる。ひとは王の代わりに従者を崇拝するべきではない(31 und De decal. 61)(註36)。この論争の根底にある論拠は、いずれの観点にとっても決定的ではない。というのも、君主の従者に対する関係を「流出」(ἀπόρροια)という意味で理解する、すなわち、最上の神の権力(ἀρχή)が源泉であり、その他すべての権力あるいは支配が「流出」であるという意味で理解するならば、星の神々への宗教的崇拝を政治的支配権力と同様に正当化できるだろうからである。神の権力の「流出」についての理論を、例えばアエリウス・アリスティデスに見出すことができる。彼によれば、神の民族は「ゼウス、すなわち父」(註37)からの流出であり、それはちょうどヘルメス文書(註38)が教えるように、神官〔アルコン〕が王の「流出」であるのと同じことである。フィロンが神の単一支配を語る特殊な方法は、彼がペリパトス学派的な意味で、形而上学的原理が単一であるか多数であるかという問いに関心を抱いていたのでも、また、宇宙についての文書の著者の場合のように、「権力」(ἀρχή)と「力」(δύναμις)の関係についての問いに関心を抱いていたのでもない、ということを示している。彼にとっては、ユダヤ教を巡る具体的な状況を超えて、神学的-政治的状況こそが前面に出ている。それゆえ、神の単一支配のイメージは、フィロンの場合、教育的な機能を持っている。このイメージによって、改宗者達にとってユダヤ的一神教への入り口が理解しやすくなるのである(註39)。だからこそしかし、神の単一支配のイメージは、彼と政治的に対立するあらゆる可能性において解釈される。神の単一支配は、神々の「複数支配」(πολυαρχία)(註40)あるいは「寡頭支配」(ὀλιγαρχία)(註41)、「衆愚政治」(ὀχλοκρατία)(註42)という想定に対立している。そこでは、単一の原理があるのか、それともそれ以上の原理(ἀρχαί)があるのかという形而上学的な問題は、もはやそれとしては争われない。形而上学的な世界における決定は、政治的な世界からなされているように見える。

S. 30.

ペーターゾン「政治的問題としての一神教」(6)

もちろん、フィロン自身の論述(vgl. De spec. le. II 224; De decal. 51)によれば、第一戒で扱われる神の単一支配は、宇宙の内部で働く単一支配である。それに対して、他の個別的な律法は何よりもまずイスラエルに関わるものであるように思われる。しかし、「単一の」神が単にイスラエルの君主であるだけでなく、宇宙の君主でもあるのだから、宇宙の君主によって支配されている「単一の」民族――「最も神に愛された民族」(De Abrah. 98)――は、全人類にとって祭司となり、預言者となる(das.)(註27)。例えばフィロンが『個々の律法について』〔De spec. leg. II 167〕で詳述するように、イスラエルの「祈祷と祝祭と初物」は、「人類全体のために捧げられる」のであり、イスラエルが「唯一の真の」神を崇拝するのは、単に民族のためだけではなく、全ての人類のためにそうするのである(das.)。そうして、ユダヤ教の大祭司は、「全人類」のためだけではなく、全宇宙のために謝辞を述べる(De spec. leg. I 97)。神の単一支配は必ずしもイスラエルに限定されず、人類と宇宙にまで拡張されるのだから、「単一の」神に対応する「単一の」民族が成し遂げることは全て、人類と宇宙にとって意義のあることなのだ。ユダヤ教的一神教を改造したことの政治的・神学的帰結が、宇宙の「単一支配」にあることは明白である。とはいえ、この帰結が必然的に、ユダヤ民族を「全人類」のための祭司にするのではあるが(註28)。

『個々の律法について』〔De spec. leg. I 13-31〕の中の「単一支配」を扱った章をより仔細に考察するならば、まず初めに、「単一支配」というスローガンが論述の中でもはや繰り返されない、ということが注意を引く。この語はここでは、他の箇所〔De decal. 51 usw.〕の場合と同様に、全体の前に単に礼儀として付けられているだけである。二番目に分かることは、フィロンがペリパトス学派の資料を素材として用いている、ということである。神は「諸王の王」(βασιλεὺς βασιλέων)であり、したがってペルシアの「大王」と比較されるべきである〔18〕。これに対して、星の神々(θεοί)は神に対して下級領主(τὴν ὑπάρχων(註30)τάξιν)の地位を保持しているだけである。ひとは「万物の最古の原因」(τοῦ πρεσβυτάτου πάντων αἰτίου)への崇拝を守らなければならず、「王の代わりに下僕や門番を崇拝する」(τοὺς ὑποδιακόωους καὶ πυλωροὺς πρὸ τοῦ βασιλέως θεραπεύειν)〔31〕べきではない。『十戒について』〔De decal. 61〕でも同様のことが言える。すなわち、大王に相応しい敬意を下級領主や太守に表するならば、それは無意味で危険でさえあるだろうが、同じことは神に関しても言えるのである。フィロンがその論述においてペリパトス学派の史料を前提としていることは明らかである。この史料の中で、宇宙についての文書の場合と同じように、天界にある「諸王の王」の廷臣が下僕達(ὑποδιάκονοι)(註32)や門番達(πυλωροί)(註33)ともども描かれていたのである。

S. 29.