ペーターゾン「政治的問題としての一神教」(9)
ローマの支配が力を引き受けて以後、秩序(τάξις)が万物の内に宿り、輝く光が生命へと到来し、普遍的な安全がもたらされた(註50)、という。このようにゼウスの支配を政治的支配と比較する思想は、他のところでも広まっていた。例えば、カリマコスの『ゼウス賛歌』やルカヌスの『内乱』(Bell. civile I 33 ff.(註51))を思い浮かべればよい。ゼウスと政治的世界との関係は、どんな時代でもギリシャ思想の主題だっただけに、こうした思想はただちに抱かれたのである。フィロンは、「神の単一支配」という概念と同様にその語を、エジプトにおけるヘレニズム的ユダヤ教の学派的伝統の中にすでに見出していた(註53)、と推測すべきだろう。パレスチナ的ユダヤ教の代表者であるヨセフスは、どこでも神の単一支配について語っていないことは、注目に値する。これに対して、エジプトに由来する(註54)『マカバイ記3』――アレクサンドリアに由来するユダヤ教のシビュレ〔巫女〕(Buch III und Frgm. I)も同様に――は、祈りの呼びかけとして『君主』(μόνρχε, c. 2, 2)という語を知っていた。さらに、フィロンが見出したこうした伝統は、ペリパトス学派的な理念と協働していると推測するべきである。ここから、フィロンは、アリストテレス『形而上学』第12巻の結論部と同じように、『諸言語の混乱』(De confus. ling. 170)の中で『イリアス』の章句を引用する。すなわち、「多数支配は善ではなく、支配者は一人が望ましい(οὐκ ἀγαθὸν πολυκοιρανίη, εἶς κοίρανος ἔστω)」である。フィロンによれば、この章句は国家と人類に対して適用するよりも、神と世界に対して適用する方が正しい。だから、「万物を統制し管理することが唯一許されている単一の支配者、領主、王」(εἷς ἄρχων καὶ ἡγεμὼν καὶ βασιλύς, ᾧ πρυτανεύειν καὶ δισικεῖν μόνῳ θέμις τὰ σύμπαντα)が存在する、という。この定式化は、ホメロス的な王制の概念がここではもはや本来のものではない仕方で言語表現を与えられており、王の称号はむしろ断片化され無機的なものにされて、ギリシャ的なポリスの公職的称号、神へと転移された称号と隣接している、ということを示している。このように公職的称号を神へと転移することは、ヘレニズム文学の中に見つけることができる。たとえば、ディオン・クリュソストモス(註55)やアエリウス・アリスティデス(註56)に時々見られる。このことは確かに、宇宙とは国家(πόλις)であり、最高職としての神によって管理されているとするストア的表象から説明できよう。とはいえ、たとえこのストア的表象に従って、フィロンにおいてもストア的な汎神論、神には「管理すること」しか許されていない汎神論を見出すとしても、このことを語るフィロンの文章の続きには、以下のことが示されているのである。すなわち、神的司令官には、天使という天界の戦闘力(δυνάμεις)(註56a)を自由に行使できること、ペリパトス学派の資料が、『イリアス』からの引用を選択させたこと、そしてそれがイメージの粉飾を規定したことである。これに対して他方、ポリスの公職的称号を神へと転移することは、概念的な論述という意味より、「顕彰」(τιμή)という情動的な意味を持っているのである(註57)。
S. 32.
ペーターゾン「政治的問題としての一神教」(8)
こうした考え方は、『逃亡と発見について』〔De fuga et inv. 10f.〕の中のある箇所で特徴的に見られる。ヤコブとは、「聖霊(νοῦς)が到来したのは、万物が秩序にもたらされるために、そして、多数支配から生ずる存在するものの無秩序を、法律に従う支配による秩序、すなわち王の支配による秩序へともたらすためである、と語った者達」(註43)の象徴である。この意味で、ヤコブは「真の単一支配の信奉者」(11)(註44)なのである。フィロンの思想とは以下の通りである。すなわち、神は衆愚政治の支配の後で、法律に従う支配(ἀρχὴ νόμιμος)の秩序(τάξις)を回復する。しかし、この秩序とは、王制であり、単一支配であって、民主制などではない。これは本来、民主制的理想に対する熱烈な支持者であった(註45)フィロンにあって驚くべきことである。とはいえ、ユダヤ教の神への信仰に基づいて、彼が形而上学的な民主制と関連させて、神々の民主制を語ることはできなかった。フィロンは、上に引用した箇所で、『ティマイオス』篇(30A)の中でデミウルゴスが無秩序から秩序を創造する(註46)のだと語っていたプラトンを、自説と結びつけている。しかし、フィロンがプラトン的デミウルゴスの技能的行為を政治的活動に変えたことは、特徴的である。フィロンの表現によれば、例えばアウグストゥスがそれを実行したように、プラトン的デミウルゴスもまた、「無秩序を秩序へと」移し入れたのである(Leg. ad G. 147(註47))。プラトン的デミウルゴスの行為を、このように政治的に再解釈することは、秩序(τάξις)というギリシャ語の意味の可能性に端を発する。というのも、この語でもって、国家の「体制」(πολιτία)が表されうる(註48)からである。フィロン自身が語っているように(οἵ…ἔφασαν)、彼がこうした宇宙の政治的秩序を回復する活動との関連付けを文学から借用したこと、そして、この関連付けが、宇宙の単一的支配の本来的で真正のイメージを、ホメロス的な王制あるいはペルシアの大王制ではなく、ヘレニズム的単一支配あるいはローマ皇帝時代の元首政へと導いていることは明らかである。それゆえ、次のことも容易に分かるであろう。すなわち、確かに異教徒の土地で神の単一支配――それは初めに宇宙における無秩序の諸権力に対する闘争の中で構築された――について語ることはできるかもしれないが、ユダヤ教の神と天地創造の概念を前提としてそれを語ることはできないだろう、ということである。異教徒の形而上学に基づいて、神話的闘争の後にようやく勝利したゼウスの支配を、新たな政治秩序の構築と比較することはできよう。実際、それは珍しいことではない。この点に関しては、アエリウス・アリスティデスによるローマに向けての講演が、特に印象深い。彼はそこで、ゼウスの支配以前は、あらゆるものが完全な騒乱と反乱の内にあったのであるが、ゼウスの支配以後は、タイタン族は大地の深奥へと潜り込んだのであり、ローマの支配についても同じことだ、と論じるのである。
『百科全書』のアニマル・エコノミー(10)
ピュタゴラスの弟子アルクマイオンの名は、医学の事件簿の中でも、動物の解剖を初めて行なったことで有名である(彼の後しばらく経ってようやく、エラシストラトスとヘロフィロスが人間の死体にメスを入れることになった)。アルクマイオンは、健康が熱、乾、冷、湿、甘、苦、その他同様の性質における平衡に依存し、これらのうちひとつの性質が他を凌駕して、統一と均衡が阻害されると病気が生ずる、と考えていたという。こうした考えは、古代のあらゆる理論の第一の基礎であり、「悪気質」(intempéries)の様々な階層と、現代人にとって今日でもなお受容されている有名な区分、すなわち四気質の第一の基礎であった。ヘラクレイトスは、人間の悪徳に涙を流した人柄で知られる哲学者であるが、彼は人間身体と宇宙の有名な比較を提唱した。その後、錬金術師達はこの比較を再び取り上げ、人間を「マクロコスモス」(大きな宇宙)に対する「ミクロコスモス」(小さな宇宙)という名前で指したのである。ヘラクレイトスは、二つの機械が構造上似ており、諸機能の秩序とメカニズムがまったく同じであると主張していた。彼は次のように述べている――「我々の身体に起きていることは、宇宙で起きていることと同じである。尿は膀胱で作られる。ちょうど雨が大気の第二層で作られるように、大地から立ち上って濃縮され雲となった蒸気から、雨が生じるように。同様に、尿は養分から上昇して膀胱に浸透した発散物から形成される」。この記述から、ヘラクレイトスの生理学について、彼の解剖学的知識の広さと正しさを判定することができる。
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ペーターゾン「政治的問題としての一神教」(7)
しかし、フィロンは、ユダヤ教神学で利用できるように、ペリパトス学派の資料を改変していたように見える。第一の点は、神についての言明に関わる。『個々の律法について』〔20〕にあるように、神とは「単に精神的・感覚的な神々の神であるだけはなく、万物の創造主の神である」(οὐ μόνον θεὸς θεῶν ἐστι νοητῶν τε καὶ αἰσθητῶν, ‘λλὰ καὶ πἀντων δημιοθργός)とすれば、最上の神によるデミウルゴスとしての働きへのこの言及は、ペリパトス学派的な直観を自覚的に超えていくことになる(註34)。第二の点は、大王と廷臣のイメージを使用することによって必然的に(註35)生じる、イメージの多神教的解釈に対する論争に関わる。ひとは王の代わりに従者を崇拝するべきではない(31 und De decal. 61)(註36)。この論争の根底にある論拠は、いずれの観点にとっても決定的ではない。というのも、君主の従者に対する関係を「流出」(ἀπόρροια)という意味で理解する、すなわち、最上の神の権力(ἀρχή)が源泉であり、その他すべての権力あるいは支配が「流出」であるという意味で理解するならば、星の神々への宗教的崇拝を政治的支配権力と同様に正当化できるだろうからである。神の権力の「流出」についての理論を、例えばアエリウス・アリスティデスに見出すことができる。彼によれば、神の民族は「ゼウス、すなわち父」(註37)からの流出であり、それはちょうどヘルメス文書(註38)が教えるように、神官〔アルコン〕が王の「流出」であるのと同じことである。フィロンが神の単一支配を語る特殊な方法は、彼がペリパトス学派的な意味で、形而上学的原理が単一であるか多数であるかという問いに関心を抱いていたのでも、また、宇宙についての文書の著者の場合のように、「権力」(ἀρχή)と「力」(δύναμις)の関係についての問いに関心を抱いていたのでもない、ということを示している。彼にとっては、ユダヤ教を巡る具体的な状況を超えて、神学的-政治的状況こそが前面に出ている。それゆえ、神の単一支配のイメージは、フィロンの場合、教育的な機能を持っている。このイメージによって、改宗者達にとってユダヤ的一神教への入り口が理解しやすくなるのである(註39)。だからこそしかし、神の単一支配のイメージは、彼と政治的に対立するあらゆる可能性において解釈される。神の単一支配は、神々の「複数支配」(πολυαρχία)(註40)あるいは「寡頭支配」(ὀλιγαρχία)(註41)、「衆愚政治」(ὀχλοκρατία)(註42)という想定に対立している。そこでは、単一の原理があるのか、それともそれ以上の原理(ἀρχαί)があるのかという形而上学的な問題は、もはやそれとしては争われない。形而上学的な世界における決定は、政治的な世界からなされているように見える。
S. 30.
ペーターゾン「政治的問題としての一神教」(6)
もちろん、フィロン自身の論述(vgl. De spec. le. II 224; De decal. 51)によれば、第一戒で扱われる神の単一支配は、宇宙の内部で働く単一支配である。それに対して、他の個別的な律法は何よりもまずイスラエルに関わるものであるように思われる。しかし、「単一の」神が単にイスラエルの君主であるだけでなく、宇宙の君主でもあるのだから、宇宙の君主によって支配されている「単一の」民族――「最も神に愛された民族」(De Abrah. 98)――は、全人類にとって祭司となり、預言者となる(das.)(註27)。例えばフィロンが『個々の律法について』〔De spec. leg. II 167〕で詳述するように、イスラエルの「祈祷と祝祭と初物」は、「人類全体のために捧げられる」のであり、イスラエルが「唯一の真の」神を崇拝するのは、単に民族のためだけではなく、全ての人類のためにそうするのである(das.)。そうして、ユダヤ教の大祭司は、「全人類」のためだけではなく、全宇宙のために謝辞を述べる(De spec. leg. I 97)。神の単一支配は必ずしもイスラエルに限定されず、人類と宇宙にまで拡張されるのだから、「単一の」神に対応する「単一の」民族が成し遂げることは全て、人類と宇宙にとって意義のあることなのだ。ユダヤ教的一神教を改造したことの政治的・神学的帰結が、宇宙の「単一支配」にあることは明白である。とはいえ、この帰結が必然的に、ユダヤ民族を「全人類」のための祭司にするのではあるが(註28)。
『個々の律法について』〔De spec. leg. I 13-31〕の中の「単一支配」を扱った章をより仔細に考察するならば、まず初めに、「単一支配」というスローガンが論述の中でもはや繰り返されない、ということが注意を引く。この語はここでは、他の箇所〔De decal. 51 usw.〕の場合と同様に、全体の前に単に礼儀として付けられているだけである。二番目に分かることは、フィロンがペリパトス学派の資料を素材として用いている、ということである。神は「諸王の王」(βασιλεὺς βασιλέων)であり、したがってペルシアの「大王」と比較されるべきである〔18〕。これに対して、星の神々(θεοί)は神に対して下級領主(τὴν ὑπάρχων(註30)τάξιν)の地位を保持しているだけである。ひとは「万物の最古の原因」(τοῦ πρεσβυτάτου πάντων αἰτίου)への崇拝を守らなければならず、「王の代わりに下僕や門番を崇拝する」(τοὺς ὑποδιακόωους καὶ πυλωροὺς πρὸ τοῦ βασιλέως θεραπεύειν)〔31〕べきではない。『十戒について』〔De decal. 61〕でも同様のことが言える。すなわち、大王に相応しい敬意を下級領主や太守に表するならば、それは無意味で危険でさえあるだろうが、同じことは神に関しても言えるのである。フィロンがその論述においてペリパトス学派の史料を前提としていることは明らかである。この史料の中で、宇宙についての文書の場合と同じように、天界にある「諸王の王」の廷臣が下僕達(ὑποδιάκονοι)(註32)や門番達(πυλωροί)(註33)ともども描かれていたのである。
ペーターゾン「政治的問題としての一神教」(5)
これまで、アリストテレスと宇宙についての文書の著者における、神の単一支配について論じてきたが、どちらの作者も単一支配という語を神との関連で使用していた訳ではない。哲学的に構築された神学の中でも、こうした用語法が先ず以て証明されている者として、フィロンが挙げられる。次のような方法で、そのことを解明しようと試みることができるかもしれない。――アンドロスのイシス賛歌の中で、この女神の単一支配(μοναρχία)について語られている(註17)。より古い時代にすでに、セラピスに先立ってイシスの「並外れた卓越性」が確認されている(註18)。フィロンがユダヤ人に崇拝された神の単一支配について語るとすれば、彼はこの単一支配をイシスの単一支配に対置しているのだと言えよう。おそらくエジプトでは宗教闘争という特殊な状況があったのであり、この状況が言葉による定式化へと導いたのであろう――というように。とはいえ、このことに対して、賛歌の中の「単独支配」(μοναρχία)という語をそれほど真面目に受け取るべきではない(註19)、という異論を差し挟む余地がある。祈祷(註20)と賛歌(註21)の言葉には、それ固有の法則がある。これらの文学部門(註22)において言葉による定式化に見られるもの(註23)は、それだけではまだ、散文の言葉においても意見の対立を形成するきっかけを与えるとは全然言えない。したがって、この仮説はまったく利用しない方が得策である。
フィロンの用語法は『個々の律法について』〔De spec. leg. I 12〕に特徴的である。彼はそこで、個別の律法に取り組まねばならない、それも第一に「単一支配について発令された」(註24)律法に取り組まねばならない、と述べている。「個別の律法」についての註釈は、イスラエルにおける他の神々への崇拝を排除する第一戒から始められる。しかし、なぜフィロンは「単一支配を扱う律法」(οἱ περὶ μοναρχίας νόμοι)と言うのだろうか。ひとは少なくとも、彼が「「神の」単一支配を扱う律法」と言うだろうことを期待する。しかし、そのような補足は存在しない(註25)。イスラエルにおける単一支配は神の単一支配であり、このことは自ずから明らかである。イスラエルは、「単一の」民族が「単一の」神的君主によって統治される神政政治である。「単一の」民族と「単一の」神、それはユダヤの合言葉ではないか(註26)。フィロンは理想国家の世俗的な立法の方法に従ってイスラエルの聖なる立法を解釈する。それ故、彼は憲法の解釈を国家のあらゆる個別的立法の解釈の始めに置くのである。そして、これこそ単一支配なのである。
S. 28.
『百科全書』のアニマル・エコノミー(9)
医学の最初の諸世紀に遡ってみよう。まだ揺籃期にあったこの学問は、盲目的な経験主義へと還元され、奇妙な迷信と混交し、あまりに多くの無知を生み出した。ひとはいかなる解剖学的知識も、確認され、文章化され、反省された観察も知らなかったし、人間についてのいかなる理論的な考えも持ち合わせていなかった。哲学者が医学に専心し、そこに「理性的な推論」を導入し、「生理学」(physiologie)と呼ばれる部門を設立したのは、およそ40オリンピア紀(※訳註)、つまり、35世紀初め頃のことにすぎない。この生理学は、特に健康な状態の人間身体を扱い、人間身体の諸機能を、解剖学的事実に従って自然学(Physique)の原理によって説明しようとするものである。しかし、これら二つの学問は、その時はまだ洗練されておらず、誤解されていたのであり、あまりに不完全で正確さに欠ける知識と観念しかもたらすことがなかった。同様に、どんな古代の医学者達の書物の中にも、曖昧でばらばらの観念しか見出すことはできない。こうした観念は、正しく評価されていない個別の事例から生じたのであり、その上、諸観念は互いに結び付けられることもなかったし、解剖学的発見と関連付けられることもなかった。ケルススによれば、ピュタゴラスは、医学の理論に熱心に取り組んだ――と同時に、その実践には無関心であった――最古の哲学者である。ピュタゴラスは、調和の法則――有名ではあるが詳細の不明な法則――を人間身体に適用した。彼は、この法則に従って全宇宙が統制されているのだと信じていた。つまり、ピュタゴラスは、「健康」とは「徳」「神」そのもの、一般的に言って「あらゆる善」とまさに同じものであり、それは「調和」の内に存すると主張した。彼はこの「調和」という語をしばしば用いたのではあるが、決してそれを説明しなかった。おそらく彼は、この言葉によって、あらゆる部位や機能が協働すべき厳密な関係あるいは的確な比率のことを意味していたのだろう。それは、非常に美しく正しい考えであり、その真理は今日でも一般的に認知されている。しかしながら、この調和という語は、より神秘的な起源、様々な数の徳についての彼の教説と類比的な起源を持っていた。ピュタゴラスによれば、病気とはこの調和の乱調から生じる必然的な帰結であった。くわえて、カルデア人から教説を引き継いだ古代の宗教的歴史家達と同じように、彼は、心臓から脳にまで広がる魂を唱えた。そして、心臓内にある部位が情念の源であり、脳内にある部位が知性と理性を生み出すと考えていた。心臓と脳の間にある他の諸部位にどのような用途があるかは、全く分からなかったのである。
※訳註 紀元前616年頃
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ペーターゾン「政治的問題としての一神教」(4)
宇宙についての文書において、神とは、一本の糸を引っ張ることで世界における運動の全多様性を生み出すような、マリオネットの操縦者(νευροσπάστης)である。宇宙論の著者にとって、宇宙は単一支配的な体制を備えていると言える。神は、制度となった単一支配において、君主としての職務を通じて制度全体を作動させているのである。宇宙の内部で働く神的君主のイメージは、ここではまだ、単一の権力があるのかそれともより多くの諸権力(ἀρχαί)があるのか、という問いに答えるものではない。著者は恐らくこう答えるだろう。神とは、「力」(ストア派の用語法では「デュナミス」であるが、著者は実際のところ、アリストテレス的なキネーシスを想定している(註11))が宇宙の内部で働くようにするための前提である。しかし、まさにそれ故、神はそれ自身としてはいかなる「力」(δύναμις)でもないのだ、と。「王は君臨すれども統治せず」である。アリストテレスにとって、宇宙の君主とは、諸権力(ἀρχαί)の衝突の中で、強情さと具象性において際立った単一の存在(註12)としての君主である。これに対して、宇宙論の著者の場合、君主が姿を現すことはなく、君主は自らの宮殿の部屋の中に隠れたままであり、マリオネット劇場(註13)の操縦者のように、不可視で覆い隠されたままである。力(δύναμις)だけが可視的であり、世界の内部で働くものである。だが、その背後に潜む権力は、不可視なのである。いま示された差異は、示唆に富んでいる。というのも、この違いが単に、異なった時代、異なった政治状況の表現であるからだけではない。それだけでなく、この違いはまた同時に、形而上学的な世界像の統一という最終的な定式化が、政治的統一の可能性に対してつねに同時に決定され、そして、予め決定されている(註14)、ということを示してもいるからである。しかしまた、もうひとつのことも容易に明らかとなる。すなわち、宇宙論の著者が神と関連付ける「力」(potestas, δύναμις)と「権力」(ἀρχή)の区別は、形而上学的‐政治的問題である、ということである。神が「力能〔potestas〕」(δύναμις)が存在するための前提であるとすれば、単一の神は「権威〔auctoritas〕」の保持者となるだろう。その時、一神教は政治的権威の原理となるのである。例えば、偽アウグスティヌスの問題集で言明されているように(rec. Souter in Corp. Scr. Eccl. Latin. Bd. 50, S. 272, 22f., S, 273, 2f.)である。これに対して、神の力(δύναμις)と権力(ἀρχή)の区別がプラトン的二元論の意味で理解されるならば、王というカテゴリーが世界創造主(δημιουργός)のカテゴリーと対置される――これはヌメニオス以来よく知られている(註15)――だけではなく、「王としての神は支配すれども統治せず」という命題からグノーシス的な結論が引き出されることになる。それはつまり、「神の」支配は確かに善であるが、デミウルゴスの統治あるいはデミウルゴスの「諸権力」――それは通常、役人のカテゴリーの下で理解されている――による統治は悪であるということ、言い換えれば、統治はつねに不正である(註16)ということである。
『百科全書』のアニマル・エコノミー(8)
人間身体のあらゆる機能は、三つの階層に分類することができる。第一の階層は、「生命維持」と呼ばれる機能を含んでいる。この機能は「生命」を維持するために必要であり、それが停止すると生命は存続することができない。この機能は、生命の最も明白な原因であり、その最も確かな徴である。その中には、例えば、血液の循環、あるいはむしろ心臓と動脈の鼓動、呼吸が数えられ、脳の未知で「不確かな」運動が挙げられることもある。第二階層の機能は、「自然の」という名で知られている。その主な効果は、身体がなした損失の補填である。消化、造血、栄養摂取、分泌をそれに数え入れることができる。その生命に対する影響は、生命維持機能ほどは分かりやすくない。死は、自然の機能の停止に続いて起こるが、生命維持機能の停止ほど直ちにではない。死の前には、多かれ少なかれ病的な状態が続く。最後に、動物的な機能が第三の階層を形成する。この機能は、魂と身体との交流の結果であると考えられるので、動物的(animales)と呼ばれる。それは、(人間の場合)二つの要因が共通して働くことなしには作動しえない。この二つの要因とはつまり、「意志的」と呼ばれる運動と内的・外的感覚とである。これらの機能が不調や全面的な停止に陥っても、単に「健康」を悪化させるだけであって、「生命」を阻害することはない。これらの機能にさらに、各性に固有の機能や「生命」にとってそれほど本質的ではない機能――それを欠いても、しばしば「健康」に反することがない――を付け加えることもできるだろう。この階層には、精液の排泄、生殖、月経の排出、妊娠、出産等々が含まれる。これら全ての機能は――既に述べたように――、機械全体に広がった運動と感情が、その構造や連結、状況に関して、各器官の内で感じる特殊な変容でしかない。各個別機能の秩序やメカニズム、諸法則、諸現象は、この事典の中で、別個の記事をなしている。「循環」「消化」「栄養摂取」「呼吸」その他の「言葉」を参照せよ。こうした細部の記述は、「アニマル・エコノミー」の一般的な水準に入っていくことはできないだろう。この水準は、大局的に捉えられ、あらゆる個別の適用に先立つ、運動の第一原因にのみ関わるべきである(感情とは、実際のところ、運動によって活気づけられた被刺激性にすぎない)。人間身体を他のあらゆる機械、すなわち、技術によってどんな小さなバネさえも取り集め、バラバラにし、はっきりと認識しうるような機械と同じであると信じるのは、至極当然である。どんなに複雑な機械でさえも、あらゆる運動は主要な部品を巡って動き、それに支えられている。このことは、どんな拙い技術者にも知られている事実である。主要な部品によって運動は開始され、そこから機械の残りの部分へと運動が配分され、各個別のバネの内で様々な効果が生み出される。人間の中のバネのようなものを発見できて初めて、ひとは生命、健康、病気、死の一般的原因が作用する仕方を正確に知り、厳密に規定することができるようになる。「アニマル・エコノミー」についての正しい観念を作るためには、他のあらゆる機能に先立ってそれらを規定する原初的な機能へと必然的に遡らなければならない。この機能の優先性は、これまでほとんど全ての観察者の光から逃れてきた。これまでの観察者は、ある機能を他の機能の後に精査し、絶えず循環論法に陥り、機能の誤った連環において常に横道に逸れ、原因を結果に、結果を原因に変えてしまった。この認識の欠陥こそ、彼らの主な間違いの素であり、『新医学展望のモデル』(Specimen novi medicinae conspectûs)と題された有名な概論以前には、長い間、その資格を満たすような「アニマル・エコノミー」についての著作が現れなかったことの、真の理由なのである。なお、『新医学展望のモデル』は最初1749年に出版され、すぐ後、1751年に非常に多くの増補がされて再版された(訳註)。
※訳註
参照:Louis de La Caze, Specimen novi medicinae conspectûs, 1751.
なお、J. トムソン『ウィリアム・カレンの生涯』には、次のような記述がある。「Bordeu氏のおじであるLe Caze氏〔原文ママ〕は、様々な出版物の中で、次のことを主張していた。すなわち、アニマル・エコノミーには行為の3つの大きな中心がある。それはつまり、脳、心臓、胃あるいは横隔膜の中心である。この配列は明らかに動物的(Animal)、生命維持、自然的という機能の古い区分に対応している」(p. 441)。この動物的・生命維持・自然的機能の三区分は、本文で述べられた、アニマル・エコノミーの三階層と対応するものと考えられる。
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ペーターゾン「政治的問題としての一神教」(3)
イェーガーは、神学に関するアリストテレスの議論はキリスト紀元の転換期辺りで十全に展開された、と考えている[S. 159 A. 2]。より慎重に、この議論は現在ようやくその伝承に関して改めて明らかになりつつあるのだ(註5)、と言うべきかもしれない。とはいえ、特徴的な変化に関しては、宇宙についての偽アリストテレス文書やフィロンを思い起こさせるだろう。
宇宙についての文書(註6)は、その神概念に関してアリストテレス的な特徴を示している[c. 6]。不明の著者によれば、神は天界に存在する力(ἱδρυμένη δύναμις)を思いのままにする。この力は万物にとって保存の原因(δύμπσιν αἰτία σωτηρίας)となるものである。神をストア哲学流に、万有を統宰する力として考えるのは相応しくない。また、指導的な立場にある人間――例えば、最高指揮官や都市や家の長――が、各々何らかの仕事を引き受けているわけでもない。神の統治はペルシア大王の方法に凖えて考えればよい。大王は、宮殿の内部に多くの部屋で隔てられて不可視のものとして住み、膨大な廷臣に取り巻かれている。クセルクセス王自らがあらゆる仕事を果たすと想定することは馬鹿馬鹿しいように、神について何かそうしたことを信じようとすれば、それはなおさら馬鹿馬鹿しい。神はむしろ最上界に住んだままで、その力(δύναμις)が宇宙の総体を貫き、太陽と月を動かし、全天界を巡らせ、地上の諸事物に対して保存の原因となるのである。
こうした議論を読めばただちに二つのことが明らかとなる。すなわち、著者はアリストテレスの思想を利用しているということ、そして、著者がその思想を伝統から引き継いだ(註7)ということである。しかしまた、別のことも見て取れる。それはつまり、ペリパトス学派の資料はもはや古い関連の中で考えられてはおらず、むしろストア派の神概念との論争が著者の目下の関心を規定していた、ということである。さらに、王のイメージは、その事実に基づく内容に関して、アリストテレス『形而上学』第12巻の最終節の記述から著者によって信じられたのだと推測できる。しかし、著者の下でホメロスの英雄的な王がペルシアの大王に置き換えられた(註10)のを見るとき、そこで何が起きているのか。イメージの横滑りは、ストア派との論争によって条件付けられた問題設定の横滑りに起因している。『形而上学』第12巻において、神はあらゆる運動の超越的な目的(τέλος)であり、その点においてのみ王であり、その点においてのみ君主なのである。「軍隊における兵士たちの戦術的な動き、それも不可視の指揮官の計画を遂行する動きというのは、アリストテレスがこの世界像のために例外的に語った上手い喩えである」[Jaeger a. a. O. S. 415]。